泥棒 第5章〜第6章
from 『泥棒!: アナキズムと哲学』
第五章  倫理的アナーキー  ——エマニュエル・レヴィナスにおける他律
シュールマンの存在論的差異によるアルケーの解体は全体性に縛られたままである。(レヴィナスとシュールマンは交流なし)
アルケー・パラダイムが失効する可能性は〈他人〉に曝されることとしての倫理的厳命である外部からもたらされる。
p124 ア・プリオリなものより古い先行性、現前なき過去の連続した受動性、そして〈他人〉への曝されは、倫理とアナーキーが一致する場所、すなわち責任=応答可能性をしるしづける。アナーキーな責任。これこそが超越の接着語法である。
『存在するとは別の仕方で』の「身代わり」
他人への曝されは自我の中で経験されるが、主体性よりも先に他人が先行しているという主体性の二義的性格。
倫理的な他律
この他律においては服従はいかなる秩序にも従うことがない。
カント的な意味での自律はなおもアルケー的なものである。
定言命法は定義に明示されるように命令に還元される。自律とはそれ自体以外の内容を持たず、それ自体についての意識と融合し、それゆえ、他者性を排除することで初めて自律になる。これこそが自由。
倫理的な厳命はそれ自体では自らの源泉にならない。
〈他〉としての〈他人〉の顔と出会うことで倫理的なものとなる。
神の選択/隷従の議論で存在論的アナーキーと似た構造で、神の選択=アナーキー的な奴隷状態を示す。
p141 神の選択、福音、啓示は、「あらゆる政治的疎外の彼岸にあり、決定的に脱疎外化する、このさらなる〈いわく言いがたいもの〉」をもたらす。
不明瞭な点
1、アナーキーな命令なき服従がすべての人にも普遍的にあるという倫理的アナーキーを示すが、なぜ政治的アナキズムに拡張されないのか。(なぜ国家の必要性を肯定するのか)
国家は共同体を犯罪から守るとともに、「倫理的狂気」に至らないように倫理的他律の調整も行う。
アナーキーのうちに秩序をもたらして無秩序を招かないことが国家の役割。(超越の水平性)
カエサルの国家(リヴァイアサン的)ではなく、ダヴィデの国家が好ましい。
他人のための星の下、国家そのもののうちに非アルケー的な約束を刻み込んでいる。
国家の中で国家を超える。統治する政府の不在を約束する国家。
ダヴィデの国家としてのイスラエル
p148 いわく、アナキズムは「社会を放棄すること、そして他者への無限の責任=応答可能性において実際に応答する可能性をすべて飲み込むこと」につながる。「これを無視することはニヒリズムに近づくことである」。
そのため国家のアナキズムはしかありえない。
2、倫理的アナーキーの擁護者として国家を防衛することは、選択という他律と隷従という他律を区別することは、他なる他律を思いがけない方法で排除することと引き換えにして可能になる。
p149 レヴィナスが隷従という他律と呼ぶ他律は、奴隷制という実際の法的・社会的システムが実在していたこととまったく無関係であるからだ。
「奴隷の魂」
奴隷が魂を奪われたものないし道具の魂だけを付与された者であるというのが哲学的伝統による定義
p150 奴隷はみずからの人生を選択したり、幸福――幸福こそが徳の現実的な実践に存する――にアクセスしたりしうる状態の外部にある。奴隷がそれでもなお何らかの人間性の一部を所有しているとすれば、それはまさに当の奴隷がみずからの主人の魂ではなくその身体の、分離された一部分のようにみなされている限りにおいてである。
レヴィナスはこの概念を十分な仕方で検討していない。
p154 奴隷は命令されない。奴隷は支配されることしかできない。主人は決して奴隷を「統治」しない。奴隷は統治されざるものなのだ。
〈統治されざるもの〉の両端である倫理的責任=応答可能性と奴隷制について、奴隷制という語弊のある概念を経由しなければ、政治的アナキズムが足りないことにも気がついていたかもしれない。
倫理はあまりにもうまく統治されすぎてしまうリスクがある。
第六章 「責任ある゠応答可能なアナキズム」  ——ジャック・デリダの権力欲動
脱構築はアナキズムか?
p156 国家にけりをつけること、統治する政府にけりをつけることは、権力にけりをつけることと同義ではない。それでは権力は、原理から解き放たれたとき、どのようになるのか。アナキズムはみずからの権力を何に変化させるのか。これら問いは、アナキズムを脱構築することによってのみ答えることができる。
しかし、脱構築することとはそれ自体、アナキズム的な身振りなのだろうか。デリダの見立てでは、答えは、そしてこの問いの答えたりうる唯一の答えは、「イエスでありノー」である。
あらゆるテクストには「テーマ化する側」と「テーマ化される側」がある。
テーマ化する側:問題を立てる審級
テーマ化される側:問題系が展開する空間。
これらは形式と内容の関係であるというより、問題の原因と当の問題の局在化と呼ぶことのできる差異。
p159 デリダにおいて、「テーマ化される側」としてのアナーキー―アナキズム――それに対応する「テーマ化する側」が「イエスでありノー」である――が確かに存在する。
デリダが権力についての分析を最大限複雑に展開するのはフロイトとの対話において。
『快原理の彼岸』において、快原理を精神のアルケーであると考えてきたが、外傷によって心的エネルギー快原理の彼岸へと一歩を踏み出してしまう。フロイトはアナーキーと表現。
p162 死の欲動はアナーキーなのか、それともアナキストなのか。
権力への脅迫的な執着/脱拘束の涅槃という二者択一を明確に切り分けることの不可能性。
この答えを先送りにして時間稼ぎする。『精神分析の抵抗』
p163 「分割可能性の問いは、私たちが「脱構築」とよびうるものを形式化するための、最も強力な道具のひとつである。不条理な仮説によりもし脱構築が、そして唯一の脱構築があるとすれば、「脱構築なるもの」についての唯一のテーゼがあるとすれば、それは分割可能性、すなわち分割可能性としての差延であろう」。
デリダは「思弁する――「フロイト」について」において、フロイトに変わりイエスとノーの代わりにアナキズムに対するノーを示すように読める。
反復強迫と死の欲動のあいだの中間的な位置から解き放たれた権力欲動(原―エクリチュール)は、デリダの原理的な場所を占める。
p193 結局のところデリダは、差延と権力欲動を区別できていないと述べていたことだろう。権力欲動の彼岸はすべて、差延がみずからに対しておこなう戯れにすぎないのであれば、いかにしてそれらは同一なものではないことがありえようか。したがって、差延はなおも権力欲動の原理でありつづけ、権力欲動は差延の欲望でありつづける。
結局脱講師区は権力欲動を脱構築することに成功していない。
脱構築自体の脱構築から始める必要がある。